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聖書の秘密

◆【聖書の秘密】

▼もちろん例外も有るが,一般的な キリスト教の教義(きょうぎ)には ”方便(ほうべん)”は無いと言われていが実際には ”方便(ほうべん)”が有る.

◎旧約聖書 ”創世記”{第2章 第16節}
主(しゅ)なる神は人に命(めい)じて言われた.
「園の全ての木から取って食べなさい.
ただし,善悪の知識の木からは,決して食べてはならない.
食べると必ず死んでしまう」

☆次の とおり アダム と エバ は善悪の知識の実を食べて死んでいないので,これは神が方便(ほうべん)で言った事になります.

◎旧約聖書 ”創世記”{第3章 第4〜6節}
ヘビ は女に言った.
「決して死ぬ事は無い.
それを食べると,目が開け,神のように善悪を知る者となる事を神は ご存知なのだ」
女が見ると,その木は いかにも おいしそうで,目を引き付け,賢くなるように そそのかしていた.
女は実を取って食べ,一緒にいた男にも渡したので,彼も食べた.
2人の目は開け,自分達が裸である事を知っり,2人は イチジク の葉を つづり合わせ,腰に覆う物とした.

▼もちろん例外も有るが,一般的な キリスト教の教義(きょうぎ)では人間の霊を認(みと)めていませんが聖書の中には次のようの明(あき)らかに人間の霊に関する記述(きじゅつ)が有ります.

◎新約聖書 ”ヨハネの黙示録(もくしろく)”{第6章 第9〜11節}
…第5の封印(ふういん)を解(と)いた時,私(ヨハネ)は,神の言葉と,自分達が立てた あかしとのために殺された人々の魂(たましい)が祭壇(さいだん)の下(した)にいるのを見た.
彼らは大声で叫(さけ)んで言った.
「聖なる,真実な主よ.いつまで裁(さば)きを行わず,地に住む者に私達の血の復讐(ふくしゅう)を なさらないのですか.」すると,彼らの1人1人に白い衣(ころも)が与(あた)えられた.
そして彼らは,「あなたがたと同じ しもべ,また兄弟達で,あなたがたと同じように殺されるはずの人々の数(かず)が満(み)ちるまで,もうしばらくの間(あいだ),休んでいなさい.」と言い渡(わた)された.

☆ここでは「自分達が立てた あかしとのために殺された人々の ”魂(たましい)”が祭壇(さいだん)の下(した)にいるのを見た」と ヨハネ が死んだ人の ”魂(たましい)”を(ビジョン?によって)見たと明記(めいき)して有ります.

◎新約聖書 ”コリントの信徒への手紙2”{第4章 第16節〜第5章 第10節}
だから,私達は落胆(らくたん)しません.
たとえ私達の「外(そと)なる人」が衰(おとろ)えても,私達の「内なる人」は日々新(あら)たにされていきます.
私達の一時(いちじ)の軽い艱難(かんなん)は,比(くら)べものにならないほど重(おも)みのある永遠(えいえん)の栄光(えいこう)を もたらして くれます.
私達は見える物ではなく見えない物に目を そそぎます.
見える物は過(す)ぎ去(さ)りますが,見えない物は永遠(えいえん)に存続(そんぞく)するからです.
私の地上の住(す)みかである幕屋(まくや)が滅(ほろ)びても,神によって建物(たてもの)が備(そな)えられている事を,私達は知っています.
人の手で造(つく)られた物では ない天にある永遠(えいえん)の住(す)みかです.
私達は,天から与(あた)えられる住(す)みか上(うえ)に着(き)たいと切(せつ)に願(ねが)って,この地上(ちじょう)の幕屋(まくや)に あって苦(くる)しみ もだえています.
それを脱(ぬ)いでも,私達は裸(はだか)のままでは おりません.
この幕屋(まくや)に住(す)む私達は重荷(おもに)を背負(せお)って うめいておりますが,それは地上(ちじょう)の住(す)みかを脱(ぬ)ぎ捨(す)てたいからでは ありません.
死ぬはずのものが命(いのち)に飲(の)み込(こ)まれてしまうために,天から与(あた)えられる住(す)みかを上(うえ)に着(き)たいのです.
私達を このようになるのに ふさわしい者として下さったのは神です.
神は その保障(ほしょう)として ”霊(れい)”を与(あた)えて下さったのです.
それで,私達は いつも心強(こころづよ)いのですが,体(からだ)を住(す)みかとしているかぎり,主(しゅ)から離(はな)れている事も知っています.
目に見える物によらず,信仰(しんこう)によって歩(あゆ)んでいるからです.
私達は心強(こころづよ)い.
そして,体(からだ)を離(はな)れ,主(しゅ)のもとに住(す)む事を むしろ望(のぞ)んでいます.
だから,体(からだ)を住(す)みかとしていても,体(からだ)を離(はな)れているにしても,ひたすら主(しゅ)に喜(よろこ)ばれる者でありたい.
なぜなら,私達は皆(みな) キリスト の裁(さば)きの座(ざ)の前に立ち,善(ぜん)であれ悪(あく)であれ,めいめい体(からだ)を住(す)みかとしていた時に おこなった事に応(おう)じて,報(むく)いを受(う)けねば ならないからです.

☆この「外(そと)なる人」が肉体の事で有るのは言うまでも無い事ですが,この「地上の住(す)みかである幕屋(まくや)」とは「体(からだ)を住(す)みかとしている」から肉体の事を言っているのだと思われます.

▼聖書的には ”死後の世界”は明確に書かれていないが ”パラダイス”と言う言葉で ”死後の世界”を示唆(しさ)している.

◎新約聖書 ”ルカ による福音書”{第23章 第39〜節}
十字架(じゅうじか)に掛(か)けられていた犯罪人(はんざいにん)の1人が イエス を罵(ののし)った.
「お前は メシア では ないか.
自分自身と我々を救(すく)ってみろ.」
すると,もう1人の方(ほう)が たしなめた.
「お前は神をも恐(おそ)れないのか.
同じ刑罰(けいばつ)を受(う)けているのに.
我々は自分の やった事の報(むく)いを受(う)けているのだから当然(とうぜん)だ.
しかし,この方(かた)は なにも悪い事をしては いない.」
そして,「イエス よ あなたの御国(みくに)に おいでになるときには,私を思い出して下さい」と言った.
すると イエス は「はっきり言っておくが,あなたは今日(きょう) 私と一緒(いっしょ)に パラダイス にいる」と言われた.

▼新約聖書では人間が ”復活”する時は イエス の肉体と レベル 的に完全に イコール だと示唆(しさ)している.

◎新約聖書 ”コリントの信徒への手紙1”{第15章 第40〜49節}
また,天上(てんじょう)の体と地上の体が有ります.
しかし,天上(てんじょう)の体の輝(かがや)きと地上(ちじょう)の体の輝(かがや)きと異(こと)なっています.
太陽の輝(かがや)き,月(つき)の輝(かがや)き,星の輝(かがや)きが有って,それぞれ違いますし,星と星との あいだの輝(かがや)きにも違いが有ります.
死者の復活も これと同じです.
蒔(ま)かれる時は朽(く)ちるものでも,朽(く)ちないものに復活し,蒔(ま)かれる時は卑(いや)しいものでも,輝(かがや)かしいものに復活し,蒔(ま)かれる時には弱いものでも,力強(ちからづよ)いものに復活するのです.
つまり,自然(しぜん)の体が蒔(ま)かれて,霊の体が復活するのです.
自然(しぜん)の体が有るのですから,霊の体も有るわけです.
「最初の人 アダム は命(いのち)の有る生(い)き物となった」と書いて有りますが,最後の アダム は命(いのち)を与(あた)える霊となったのです.
最初に霊の体が有ったのではありません.
自然(しぜん)の体が有り,次(つ)いで霊の体が有るのです.
最初の人は土(つち)ででき,地に属(ぞく)する者であり,第2の人は天(てん)に属(ぞく)する者です.
土(つち)からできた者達は全て,土(つち)からできた その人に等(ひと)しく,天(てん)に属(ぞく)する者達は全て,天(てん)に属(ぞく)する人に等(ひと)しいのです.
私達は,土(つち)からできた その人の似姿(にすがた)となっているように,天(てん)に属(ぞく)する その人の似姿(にすがた)になるのです.

☆聖書的には肉体を持って ”復活”するのが常識なので「 ”霊の体”が復活する」とある以上,この ”霊の体”とは霊体の事では無く, ”半霊半物質”のような霊的な肉体の事では ないかと思われます.
それは さらに イエス の肉体と レベル 的に完全に イコール であると言う事を示唆(しさ)していると思われます.
つまり,我々が復活する時は イエス の肉体と レベル 的に完全に イコール な ”半霊半物質”の朽(く)ちない肉体で復活すると思われます.
もちろん その ”半霊半物質”のような霊的な肉体となっても,我々と イエス の霊的な ランク には かなりの差(さ)が有るのは言うまでも無い事です.
ちなみに この「最後の アダム」とは イエス の事です.

■《イエス は復活してない可能性が有る》

イエス が復活したと言うのは方便(ほうべん)の可能性が有り,実際は イエス は復活してない可能性が有ると思われます.

この論は”佐倉哲”さんの
『佐倉哲エッセイ集』(トップ・ページ)
http://www.j-world.com/usr/sakura/

『復活(1)』
http://www.j-world.com/usr/sakura/bible/resurection1.html
『復活(2)』
http://www.j-world.com/usr/sakura/bible/resurection2.html
『復活(3)』
http://www.j-world.com/usr/sakura/bible/resurection3.html
『復活(4)』
http://www.j-world.com/usr/sakura/bible/resurection4.html
『復活物語の調和化』
http://www.j-world.com/usr/sakura/bible/harmonization.html
を参考にしたものです.
たぶん”佐倉哲”さんは聖書・解釈では日本で トップ・クラス だと思われます.

なお聖書・解釈の立場は 大まかに わけると4つ有ります.
(#1).イエス は存在せず,聖書は全て フィクション である.
(#2).イエス は存在したが メシア では無かった.
(#3).イエス は メシア として存在しが,復活は方便(ほうべん)だった.
(#4).イエス は メシア として存在し,本当に復活した.
僕の立場は{#3}です.
もちろん,イエス の生前(せいぜん)の記述にも多少(たしょう)の矛盾(むじゅん)が有るので,イエス の生前(せいぜん)の記述が100%真実だとは言えませんが,おおよそに おいては真実だと考えて問題ないと思われます.