トップ・ページの表示

”日月神示(ひつきしんじ)” の読み方

◆【 ”日月神示(ひつきしんじ)”の読み方】

”日月神示(ひつきしんじ)”の神様は ”父”と ”子”と ”精霊”の ランク に対応させると次のように なります.
”父”の ランク の神様は元(もと)の大神(おおかみ)が2神.
”子”の ランク の神様は「国常立大神(くにとこたちのおおかみ),素盞鳴大神(すさなるのおおかみ),大日月地大神(おおひつきくにのおおかみ)」の3神で,この中の ”素盞鳴大神(すさなるのおおかみ)”が イエス として下生(げしょう)したと思われます.
”精霊”の ランク の神様は通常 ”神々”と書かれています(もちろん固有名詞(こゆうめいし)で書かれる場合も有る)が, ”神”と言うように一人称(いちにんしょう)で書かれている場合は{子;精霊}の ランク の どちらかの神様を あらわしています.
又 ”日月神示”の 基本・スタンス は

『この神示、八通りに読めるのざぞ』
『裏(うら)の裏(うら)まで読みて下されよ』
『神示(しんじ)は その時の心によりて違(ちが)わん、磨(みが)けただけに とれて違(ちが)わんのであるから、我(われ)の心通(こころどお)りに とれるのであるから、同じ神示(しんじ)が同じ神示(しんじ)でないのざぞ』
『この神示は心通(こころどお)りに映(うつ)るのざぞ。
思い違(ちが)うと いくら神示(しんじ) 読んでも違(ちが)うことになるぞ』
『何もかも神示(しんじ) 読めば判(わか)るようになっている事 忘れるでないぞ。
この仕組、言うてならず、言わねば判(わか)らんで あろうなれど、神示(しんじ) 読めば因縁(いんねん)だけに判(わか)るのざぞ』
『心して、怪(あや)しいと思う事は、たとへ神の言葉と申しても 一応(いちおう)は考えよ。神の言葉でも裏表(うらおもて)の見境(みさかい)なく唯(ゆい)に信(しん)じては ならん。審神(サニワ)せよ』
『…<一厘(いちりん)>(1%)(の仕組)の事は知らされんぞと申して あろう。申すと仕組 成就(じょうじゅ)せんなり。知らさんので、改心(かいしん) おくれるなり。心の心で取りて下されよ』
『世の元(もと)の大神(おおかみ)の(一厘の)仕組というものは、神々(かみがみ)にも判(わか)らん仕組、判(わか)りては ならず判(わか)らねばならず、なかなかに難(むずか)しい仕組であるぞ。
知らして やりたいなれど、知らしてならん仕組ざぞ』
『<一厘(いちりん)>(1%)(の仕組)の事は言わねばならず、言うては ならず、心と心で知らしたいなれど、心で とりて下されよ、よく神示(しんじ) 読んで さとりてくれよ、神たのむのざぞ』
『この神示 八 通(とお)りに読めるのぢゃ。七 通(とお)りまでは今の人民(じんみん)でも何(なん)とか判(わか)るなれど、八 通(とお)り目は中々ぞ。
<一厘(いちりん)>(1%)(の仕組)が、隠(かく)してあるのぢゃ。隠(かく)したものは現われるのぢゃ。現われているのぢゃ。何(なん)でもない事が中々の事ぢゃ、判(わか)りたか』

ですが,これは ”日月神示”が「書いてある そのままの意味とは がぎらない」のだと思われます.
本当に「書いてある そのままの意味とは がぎらない」が正(ただ)しいのか検証して見ます.

(#1).『金(かね)が好きなら金(かね)を拝んでも よいのぢゃ。
区別と順序さえ心得ておれば何様(なにさま)を拝んでもよいぞ。…
赤貧(せきひん)は自慢にならん。無神論も自慢にならん。清貧(せいひん)は負け惜しみ。
清富(せいふ)になれよと申してあろうが。清富(せいふ)こそ弥栄(いやさか)の道、神の道』
(#2).『金(かね)では世は治(おさ)まらんと申してあるのに まだ金(かね) 追うている醜(いや)しい臣民(しんみん)ばかり、金(かね)は世を潰(つぶ)すもとぞ』
(#3).『金(かね)で世を治(おさ)めて金(かね)で潰(つぶ)して、地固(じがた)めして ミロク の世と致(いた)すのぢゃ』

この{#1}と{#2}は まるで相反するような内容ですが{#3}で解(と)く事ができます.

神が金(かね)で世を治(おさ)めている あいだは
『金(かね)が好きなら金(かね)を拝んでも よいのぢゃ。
区別と順序さえ心得ておれば何様(なにさま)を拝んでもよいぞ。…
赤貧(せきひん)は自慢にならん。無神論も自慢にならん。清貧(せいひん)は負け惜しみ。
清富(せいふ)になれよと申してあろうが。清富(せいふ)こそ弥栄(いやさか)の道、神の道』

『金(かね)では世は治(おさ)まらんと申してあるのに』金(かね)で世が潰(つぶ)れても
『まだ金(かね) 追うている醜(いや)しい臣民(しんみん)ばかり』
『金(かね)は世を潰(つぶ)すもと』だから もう金(かね)に執着(しゅうちゃく)しては ならない.

又 次に

(#4).『偽(にせ)の愛、偽(にせ)の智(ち)と申すものは、神を信じない人民(じんみん)の愛と智(ち)である事を知れよ』
(#5).『悪の やり方よ、早う善に まつろへよ、まつろへば悪も善の花咲くのぢゃ』
(#6).『洗濯(せんたく)と申すのは何事(なにごと)によらん、人間心(にんげんしん) 捨(す)ててしもうて、知恵(ちえ)や学(がく)に頼(たよ)らずに、神の申す事 一つも疑(うたが)わず、生(う)まれ赤子(あかご)の うぶ心(ごころ)になりて、神の道 守(まも)る事ぞ。
身魂磨(みたまみが)きと申すのは、神から授(さず)かっている御霊(みたま)の命令(めいれい)に従(したご)うて、肉体心(にくたいしん) 捨(す)ててしもうて、神の申す事は背(そむ)かんようにする事ぞ。
学(がく)や智(ち)を力(ちから)と頼(たの)むうちは、身魂(みたま)は磨(みが)けんのざ』

この{#5}の ”悪”とは ”学”も含(ふく)まれており,{#5}と{#4}は矛盾せず それなりに ”学”が肯定されてますが,{#4〜5}と{#6}は相反するような内容なので{#4〜5}は一般人に関する事だと思われ,{#6}は下記の{#7}の ”日月(ひつき)の民(たみ)”に関する事だと思われます.

(#7).『神ばかりでもならず、臣民ばかりでは なおならず、臣民は神の容(い)れものと申して あろが、天(あめ)の日月(ひつき)の民(たみ)と申すのは、世界 治(おさ)めるミタマの容(い)れものの事ぞ』

なぜなら,一般人が{#6}を実践(じっせん)事は不可能だからです.
それに,(予言者が神の智(ち)によって予言したとしても)我々は人間の智(ち)を使って予言を解(と)く わけですが,{#6}を そのまま一般人に当てはめると予言を解(と)かなくて良いと言う事になってしまいます.
そして

『われが助かろうと思うたら,助からぬのざぞ。その心、われ善しざぞ。身魂(みたま) 磨(みが)けた人から救うてやるのざぞ,神うつるのざぞ』

も そのまま解釈するのでは無く

『今までは悪の世でありたから、己 殺して他人 助ける事は、この上もない天の一番の教えと いたしていたが、それは悪の天の教えであるぞ。
己 活(い)かして他人も活(い)かすのが天の道ざぞ。神の御心(おんこころ)ぞ。
他人 殺して己 助かるも悪ぞ。己 殺して他人 助けるも悪ぞ。
神 無きものにして人民(じんみん) 生きるも悪ぞ。神ばかり大切にして人民 放っておくのも悪ぞ』

から解釈するのだと思われます.
つまり

『他人 殺して』,『われが助かろうと思うたら,助からぬのざぞ。その心、われ善しざぞ。身魂(みたま) 磨(みが)けた人から救うてやるのざぞ,神うつるのざぞ』

と解釈するのだと思われます.
ただし,この『他人を殺して』には他人を犠牲(ぎせい)にしてと言う意味も含(ふく)まれていると思われます.

これは あくまでも人間の智(ち)によって ”日月神示”を解釈して来た わけですが,”八 通(とお)り目”は人間の智(ち)によって解釈できないのだと思われます.
もちろん この解釈が正(ただ)しいか どうかを読む方々が審神(サニワ)しなければ なりません.

■《 ”日月神示(ひつきしんじ)”と聖書の相違点》

”聖書 新共同訳”マルコ による福音書
(第12章 第42〜44節):…一人の貧(まず)しい やもめ が来て, レプトン・銅貨(どうか)2枚,すなわち 1クァドランス を入れた.
イエス は弟子達を呼び寄せて言われた.
「はっきり言っておく.
この貧(まず)しい やもめ は賽銭箱(さいせんばこ)に入れている人の中で,誰よりも たくさん入れた.
皆は有り余る中から入れたが,この人は乏(とぼ)しい中から自分の持っている物 全て,生活費を全部 入れたからである.」

イエス は(自己・犠牲の精神で)潔(いさぎよ)く全財産を献上するのは尊(とうと)い事だと言っているようです.

”日月神示”
『神と金(かね)と二つに仕える事は できん。
その どちらかに仕えねばならんと、今までは説かしていたのであるが、それは段階の低い信仰であるぞ。
影しか わからんから、時節(じせつ)が来ておらんから、そう説かしていたのであるが、この度(たび)、時節(じせつ)到来(とうらい)したので、マコトの道 説いて聞かすのじゃ。
神と金(かね)と共に仕えまつるとは、肉と霊と共に栄えて嬉(うれし)嬉(うれし)となる事ぞ』
『不和の家、不和の国の捧(ささ)げもの、神は要(い)らんぞ。
喜びの捧(ささ)げもの、米(こめ) 一粒でもよいぞ。神は嬉(うれ)しいぞ』

”聖書 新共同訳”ルカ による福音書
(第6章 第29〜30節):あなたの頬(ほお)を打つ者には,もう一方の頬(ほお)をも向けなさい.
上着(うわぎ)を奪い取る者には,下着(したぎ)をも拒んでは ならない.
求める者には,誰にでも与えなさい.
あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしては ならない.

イエス は悪人に対しても「自己・犠牲と愛」を持って接しろと言っているのだと思われます.
たとえ自分の物や命(いのち)を奪われたとしても(自己・犠牲の精神と愛で)悪人を恨まずに その悪人を許(ゆる)しなさいと言っているのだと思われます.

”日月神示”
『右の頬(ほお)を打(う)たれたら左の頬(ほお)を出せよ。
それが無抵抗で平和の元(もと)ぢゃと申しているが、その心根(こころね)を よく洗(あら)って見つめよ。
それは無抵抗では ないぞ、打(う)たれるようなものを心の中に もっているから打(う)たれるのぞ』

”聖書 新共同訳”ルカ による福音書
(第14章 第26〜27節):もし,誰かが私のもとに来るとしても,父,母,妻,子供,兄弟,姉妹を,さらに自分の命(いのち)であろうとも,これを憎まないなら私の弟子(でし)では ありえない.
自分の十字架を背負って ついて来る者でなければ,誰であれ,私の弟子(でし)ではありえない.

この ”これを憎まないなら”とは それらを捨てて信仰に生(い)きろと言っているのだと思われます.
そして ”自分の十字架を背負って”とある以上,これは イエス のように人のために命(いのち)も捨てろと言っていると考えるのが筋(すじ)です.
この時点では まだ イエス が磔刑(たっけい)に掛けられて いないので,この時点で それを理解できた弟子(でし)は いなかったでしょうが.

”日月神示”
『今までは悪の世でありたから、己(おのれ) 殺して他人 助ける事は、この上もない天の一番の教えと いたしていたが、それは悪の天の教えであるぞ。
己(おのれ) 活(い)かして他人も活(い)かすのが天の道ざぞ。神の御心(おんこころ)ぞ。
他人 殺して己(おのれ) 助かるも悪ぞ。己(おのれ) 殺して他人 助けるも悪ぞ。
神 無きものにして人民(じんみん) 生きるも悪ぞ。神ばかり大切にして人民 放っておくのも悪ぞ』