チベット密教
「バルドゥ・トェ・ドル
(死者の書)」
抜粋
◆【チベット密教「バルドゥ・トェ・ドル(死者の書)」抜粋】
■《Prologue》
◎人間は死亡した場合,死後 霊体としての意識を すぐに取り戻す場合もあれば,数ヶ月も かかる場合もある.
この霊体として意識を取り戻した状態を「マノーマヤ・カーヤ(意成身(いじょうしん))」と言う.
「マノーマヤ・カーヤ(意成身(いじょうしん))」は比較的に はっきりした意識を持つ.しかし,場合によっては その死の間際(まぎわ)に はげしい苦痛や,つよい怨念(おんねん)を持って断末魔(だんまつま)を迎(むか)えた者は,死後 霊体としての意識が その状態のままの感覚を継続(けいぞく)する者もある.
それは つまり,断末魔(だんまつま)の はげしい苦痛や,つよい怨念(おんねん) のみが「マノーマヤ・カーヤ(意成身(いじょうしん))」と なって,自分が死んだ事を自覚できていない.
そのような「マノーマヤ・カーヤ(意成身(いじょうしん))」は我々に つよい霊障(れいしょう)を およぼす場合がある.
しかし,そのうちに,もっと はっきりとした(超感覚的な)意識へと移行する.
この時,死者(霊体)は「バルドゥ(中有(ちゅうう))」と言う状態になる.
「バルドゥ(中有(ちゅうう))」の状態に なった者は,周囲を はっきりと(超感覚的に)認識する事ができるようになり,同時に自分が死んだと言う事も自覚する.
■《Main》
◇汝(なんじ)が死んだ後の家では親戚(しんせき)の者達が死者のために法要(ほうよう)を おこなって,たくさんの生(い)き物を犠牲(ぎせい)に捧(ささ)げている.
それを見て汝(なんじ)は 汚(けが)された思いがして,激(はげ)しい怒(いか)りが汝(なんじ)に生(しょう)じるであろう.
これに心を まかせると汝(なんじ)は地獄に生(う)まれ変わるであろう.
汝(なんじ)は死んだ後の家で どのような事が おこなわれていても,汝(なんじ)は怒(いか)りを生(しょう)じては ならない.
家人(かじん)や親戚(しんせき)の者達に対する慈(いつく)しみの思いを持つがよい.
又,死んだ後に残(のこ)した財産に対しての執着心(しゅうちゃくしん)が汝(なんじ)に生(しょう)じ,又 汝(なんじ)の財産を他人が好き勝手に享受(きょうじゅ)しているのを知って,汝(なんじ)が これらの財産に こだわって,後の事を頼(たの)んだ人達に対して怒(いか)りを生(しょう)ずるかもしれない.
しかし,この怒(いか)りに心を まかせると,天人として生(う)まれ変わるはずの汝(なんじ)も地獄とか餓鬼(がき)の世界に生(う)まれる事に なってしまうであろう.
たとえ汝(なんじ)が後に残(のこ)した財産に執着心(しゅうちゃくしん)を起(お)こしたとしても,汝(なんじ)には これを手に入れる事は できないのである.
汝(なんじ)には なんの益(えき)にも ならないのである.
後に残(のこ)した財産に対する執着(しゅうちゃく)や求(もと)める気持ちは捨(す)てて,完全に投げ出すがよい.
きっぱりと諦(あきら)めるべきである.
汝(なんじ)の財産を誰(だれ)が受け取る事に なろうとも,それを惜(お)しんでは ならない.
…無執着(むしゅうちゃく)で何も求(もと)めない心の状態の ままに過(す)ごす べきである.
◇ああ,善(よ)い人よ,このようなバルドゥの身体を持つ者は,ちょうど夢の中でのように,見知った場所や近親縁者(きんしんえんじゃ)の者達に会う事ができる.
しかし,汝(なんじ)が近親縁者(きんしんえんじゃ)達に話しかけても彼らから返事が ある事は ない.
近親者や家族の者達が泣いているのを見て,「私は死んでしまっている.どうしたら よいであろう」と汝(なんじ)は思って苦しむであろう.
むき出しで熱い砂の上に置かれた魚のように,激(はげ)しい苦悩に さいなまれる事が今の汝(なんじ)には あるであろう.
しかし今,汝(なんじ)が苦しんでも なんの益(えき)も ないのである.
汝(なんじ)にラマ(師僧)が あるららば,ラマ(師僧)に おすがりすべきである.
又は,守り本尊(ほんぞん) 大慈悲尊(だいじひそん)に祈願(きがん)すべきである.
汝(なんじ)が近親縁者(きんしんえんじゃ)に執着(しゅうちゃく)しても なんの益(えき)も ない.
執着(しゅうちゃく)しては ならない.
汝(なんじ)自身で大慈悲尊(だいじひそん)に祈願(きがん)を捧(ささ)げるがよい.
そうすれば苦悩や恐怖が現われる事は ないであろう.
ああ,善(よ)い人よ,汝(なんじ)は吹きすさぶ カルマン(業(ごう))の風に追い立てられている.
風の馬に乗(の)せられて,鳥の羽(はね)が風に運(はこ)ばれるように,あちこちと さだめなく さすらうであろう.
泣いている縁者の者達に,「私は ここに いるよ.泣くのでは ない」と呼びかけても,その声に彼らは気づかない.
そこで汝(なんじ)は「私は死んでしまったのだ」と考える.
大変な苦悩が,今 汝(なんじ)に生(しょう)じる事に なるであろう.
しかし,そのような苦悩に身を苦しめては ならない.
夜となく昼となく,薄暮(うすぐ)れ時の灰色の明かりにも似た灰色の薄明かりが,ずっと引き続いて現われるであろう.
このようなバルドゥに1週間,あるいは2週間,あるいは3週間,あるいは4週間,あるいは5週間,あるいは6週間,あるいは7週間へと,49日に至(いた)るまで,汝(なんじ)は留(とど)まる事になるであろう.
シパ・バルドゥ(再生へ向かう迷(まよ)いの状態の”中有(ちゅうう)”)においての苦しみは,21日間 続くのが 一番 多いと言われているが,これは死者の生前(せいぜん)における カルマン(業(ごう))によって差があるものなので,長さを 一律(いちりつ)に決める事は できない.
◇ああ,善(よ)い人よ,まさに この時に,大変に恐ろしくて堪(た)える事ができないほどの,すさまじく激(はげ)しい カルマン(業(ごう))の大疾風(だいしっぷう)が汝(なんじ)を背後から駆(か)り立てるであろう.
ああ,善(よ)い人よ,今 この時において,汝(なんじ)は橋や礼拝堂(れいはいどう)や僧院(そういん)や<草庵(そうあん)>(草ぶきの小さな家,粗末な家)や仏塔(ぶっとう)などに しばらくの時間は立ち寄る事は できるが,長い あいだに わたって居(い) 続ける事はできない.
心と体とが別々に離(はな)れてしまっているので,そのまま じっと落ち着いている事は できない.
いささか寒(さむ)くて心は いらいらとし,皮膚(ひふ)は総毛立(そうけだ)って,気持ちは そぞろに うわのそらで定(さだ)まらない.
この時に汝(なんじ)は次のように考えるであろう.
「ああ,私は死んでしまっているのだ.私は どうしたら よいのであろう」と,このように悲しく思っている時に心臓は冷たく,うつろになる.
はかり知れないほど激(はげ)しい苦悩に襲(おそ)われる.
1つの場所に落ち着く事ができずに,歩き続けなければならない.
このような時には いろいろな事を心で思っては ならない.
意識を正常な状態に保(たも)つべきである.
…これがシパ・バルドゥ(再生へ向かう迷(まよ)いの状態の”中有(ちゅうう)”)に おいて,汝(なんじ)の<意識から できている身体>(霊体)が彷徨(さまよ)っている時の特徴(とくちょう)である.
この時に おける喜(よろこ)びも苦しみも全て生前(せいぜん)の カルマン(業(ごう))しだいで決まる.
「今,私は死んでいるのだ.どうしよう」と考えて,汝(なんじ)の<意識から できている身体>(霊体)は非常な悲しみを味わうであろう.
◇ああ,善(よ)い人よ.
男女が情を交歓(こうかん)している幻影が この時に汝(なんじ)に現われるであろう.
もしも男性として生(う)まれる時は,自分自身が男性で あるとの思いが現われる.
そして交歓(こうかん)する父母の父に対しては激(はげ)しい敵意を生(しょう)じ,母に対しては嫉妬(しっと)と愛着(あいちゃく)を生(しょう)ずる思いを持つであろう.
もしも女性として生(う)まれる時は,自分自身が女性で あるとの思いが現われる.
そして,交歓(こうかん)する父母の母にたいして激(はげ)しい羨望(せんぼう)と嫉妬(しっと)を生(しょう)じ,父に対しては激(はげ)しい愛着(あいちゃく)と<渇仰(かつごう)>の気持ちを生(しょう)ずるであろう.
これが縁(えん)と なって,汝(なんじ)は<胎(たい)への道に ある>(母胎(ぼたい)に宿(やど)る)事になる.
☆この”渇仰(かつごう)”とは灼熱(しゃくねつ)の砂漠(さばく)で命(いのち)の危険を感じるほどの乾(かわ)きから生(しょう)じる水への強烈(きょうれつ)な執着(しゅうちゃく)を表(あら)わした言葉であり.
この場合,霊体が女性として生(う)まれる時には父親に対し そのような強烈(きょうれつ)な執着(しゅうちゃく)を持つと言う事.
■《参考書籍》
『原点訳チベットの死者の書』{<訳者>川崎信定 <発行所>筑摩書房}.